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鹿児島地方裁判所 昭和45年(ワ)240号 判決

原告

池田忠雄

ほか二名

被告

石油荷役株式会社

ほか一名

主文

被告らは各自原告池田忠雄に対して金五九四、八二一円、およびこのうち金四九四、八二一円に対する昭和四五年五月二八日から完済に至るまで年五分の割合による金額、原告池田永子に対して金八九、九四四円、およびこのうち金七九、九四四円に対する右と同日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

被告石油荷役株式会社は原告池田永子に対して金二三五、六三五円、およびこのうち金一九五、六三五円に対する昭和四五年五月二八日から完済に至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

原告池田忠雄、同池田永子のその余の請求、および原告池田充良の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを一〇分し、その一を被告らのその余を原告らの各連絡負担とする。

この判決は、原告池田忠雄が被告両名のために金一〇〇、〇〇〇円の、原告池田永子が被告両名のために金一五、〇〇〇円の担保を供したときは、主文第一項のうち担保を供した原告について、原告池田永子が被告石油荷役株式会社のために金五〇、〇〇〇円の担保を供したときは主文第二項について、それぞれ仮に執行することができる。

被告両名が原告池田忠雄のために金四〇〇、〇〇〇円の、原告池田永子のために金六〇、〇〇〇円の担保を供したときは、主文第一項のうち担保を供した原告による、被告石油荷役株式会社が原告池田永子のために金一五〇、〇〇〇円の担保を供したときは主文第二項の仮執行をそれぞれ免れることができる。

事実

第一当事者が求めた裁判

原告ら

一  被告らは各自、原告池田忠雄に対し金二、六〇四、一九六円、およびこのうち金二、四四四、一九六円に対する昭和四五年五月二八日から完済に至るまで年五分の割合による金員、原告池田永子に対して金八六七、七五〇円、およびこのうち金八二七、七五〇円に対する昭和四五年五月二八日から完済に至るまで年五分の割合による金員、原告池田充良に対して金三、三〇六、三七三円、およびこのうち金三、一〇六、三七三円に対する昭和四五年五月二八日から完済に至るまで年五分の割合による金員の各支払いをせよ。訴訟費用は被告らの負担とする。

被告ら

「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決、および原告ら勝訴の場合には、担保の提供を条件とする仮執行の免脱の宣言。

第二当事者の主張

一  原告らの請求原因

(一)  被告石油荷役株式会社(以下「被告会社」という)は石油荷役を業とする会社であり、被告笛田は昭和四二年一二月当時被告会社の従業員で、被告会社のタンクローリー車の運転手であつたものであり、原告池田充良(以下「原告充良」という。他の原告についても同様)は九州巧芸の商号で看板類のデザイン、製作、取付を業としているものであり、原告忠雄は昭和四二年一二月当時原告充良の従業員であつたものであり、原告永子は原告充良の子で、原告忠雄の妻である。

(二)  昭和四二年一二月二九日午後一時四〇分頃、鹿児島県川辺郡知覧町西元五五九三番地先の川辺町方面から頴娃町方面に通じる県道(以下「甲県道」という)と枕崎市方面から知覧町を経て鹿児島市方面へ通じる県道(以下「乙県道」という)の交差点(以下「本件交差点」という)において、被告笛田が被告会社の業務のために運転して乙県道を枕崎市方面から鹿児島市方面に向つて進行していた被告会社のタンクローリー車(登録番号鹿八あ二〇一一号、以下「被告車」という)の左前部が、原告忠雄が運転して甲県道を川辺町方面から頴娃町方面に向つて進行していた原告永子所有の普通貨物自動車(登録番号鹿西ね五一九一号、以下「原告車」という)の右前部に衝突した(以下右衝突事故を「本件事故」という)。

(三)  本件事故は、被告笛田が被告車を運転して、交通整理が行われておらず、かつ見通しのきかない本件交差点を通過するにあたつて、一時停止または最徐行して甲県道からの交通の安全を確認して進行すべき注意義務を怠つて、時速約二五キロメートルの速度のまま漫然と本件交差点に進入した過失に因つて発生したものである。したがつて、被告笛田は不法行為者として、被告会社は被告車の運行供用者、および被告笛田の使用者として、本件事故に因つて原告らが被つた損害を賠償すべき義務を負つた。

(四)  原告忠雄の損害

(1) 原告忠雄は本件事故に因つて右肩甲骨骨折等の傷害を受け、昭和四二年一二月二九日から昭和四三年三月一日までの六三日間鮫島病院に入院、その後同月一三日までの間に五回右病院に通院して治療を受け、一応治癒したが肩甲関節後方挙上運動障害、握力低下等の後遺症を残すに至つた。

(2) 原告忠雄は本件事故当時被告充良の従業員として約二年間勤務し、漸く一人前の従業員として稼働できる状態になつたもので、本給月額四〇、〇〇〇円のほか、受注額に応じて支払われる歩合給を本件事故前の三箇月間は月額平均一四、〇〇〇円を得ていたので、本件事故前三箇月の平均月収は五四、〇〇〇円であつた。しかるに、本件事故による前記の傷害のため、前記の入院およびその後の自宅療養をした昭和四三年四月末日までの四箇月余右の勤務に従事できず、これによつて合計二一六、〇〇〇円の収入を失つた。

(3) 原告忠雄は昭和四三年五月から原告充良の従業員として再び勤務に従事するようになつたが、前記の後遺症のために重い物を持つことができず、内勤業務に従事しているので、復職後は昭和四五年六月まで本給を月額三〇、〇〇〇円に減額され、かつ歩合給を得られず、この状態はなお少くとも五年間は継続することが確実である。したがつて復職した昭和四三年五月から昭和四五年五月までの二五箇月間に、本件事故前の収入との差額月額二四、〇〇〇円の二五箇月分計六〇〇、〇〇〇円の収入を失つたほか、昭和四五年六月から五箇年間に、一箇月について少くとも二〇、〇〇〇円、計一、二〇〇、〇〇〇円の収入を喪失することになるのであり、その複式ホフマン式計算法による年五分の割合の中間利息を控除した現在額(昭和四五年六月一日)は一、〇四七、四四〇円となるので、結局昭和四三年九月一日から昭和五〇年五月末日までの間の収入の喪失額は、昭和四五年六月一日現在で一、六四七、四四〇円となる。

(4) 原告忠雄は前記の入院期間中附添看護を必要としたので、附添婦を雇入れる代りに、当時は内縁の妻であつた原告永子が附添看護をしたが、附添婦を雇入れた場合には、その賃金として少くとも一日について八〇〇円の六三日間分計五〇、四〇〇円を要したはずであるから、原告忠雄はこれと同額の損害を蒙つたというべきである。

(5) 原告忠雄が前記の傷害を受け、後遺症が残つたことに因つて被つた肉体的、精神的苦痛に対する慰藉料は少くとも六〇〇、〇〇〇円が相当である。

(6) 原告忠雄は被告会社から損害賠償として二四八、七八四円を受領したので、このうち一七九、一四〇円を前記の鮫島病院における入院、治療費の支払いに充当し、残額六九、六四四円を前記(1)の損害の弁済に充てたので、前記(1)の損害の残額は一四六、三五六円となつた。

(五)  原告永子の損害

(1) 原告車は昭和四二年八月に新車を代金三七五、〇〇〇円で買入れたもので、本件事故に至るまで約四箇月間使用したものであり、その間の減価割合を一二・六パーセントとして、本件事故当時の価格は三二七、七五〇円であつた。被告会社は本件事故によつて破損した原告車を修理するためにニツサンサニー販売株式会社に保管を依頼したが、その後右会社に何も連絡しなかつたため、原告車は放置され使用不能となつてしまつたので、これによつて原告永子は原告車の本件事故当時の価格相当額である三二七、七五〇円の損害を被つた。

(2) 原告永子は本件事故当時妊娠五箇月目であつたが、内縁の夫である原告忠雄の二箇月余の入院中その附添看護に当り、極度の心身疲労に陥つたため、昭和四三年三月一三日、妊娠八箇月で切迫早産(死産)するに至り、同月一二日から同月一八日まで東産婦人科病院に入院した。原告永子の右死産による精神的、肉体的苦痛に対する慰藉料としては少くとも五〇〇、〇〇〇円が相当である。

(六)  原告充良の損害

原告充良は常時七人位の従業員を使用して前記の営業を営んでいるが、右営業は従業員が外交によつて受注するものが大部分を占め、取引先と担当従業員の人的関係が密接であつて、一従業員の休職によつても取引先を失うに至る割合も大きい。また特殊の作業であるため、二年以上の経験を踏まなくては一人前の仕事ができないものであつて、代替の従業員によつて従前どおりの収益を挙げるということができないものである。ところで、本件事故前の昭和四二年一〇月から同年一二月までの三箇月間の原告忠雄の受注額は合計四四四、八七〇円、一箇月平均一四八、二九〇円であつたが、右受注額から材料費、製作工賃、歩合給としての支払分等の製作原価を控除した原告充良の純益は、受注額の少くとも四割である五九、三一六円であつた。したがつて、本件事故によつて原告忠雄が少くとも五年間は従来どおりの外勤業務に従事できなくなつたことによつて、原告充良は合計三、五五八、九六〇円の利益を失うことになるのであり、その複式ホフマン式計算法による年五分の割合による中間利息を控除した現在額は三、一〇六、三七二円である。

(七)  原告らが必要とする弁護士費用

原告らは本件の原告ら訴訟代理人との間で、本件訴訟の委任について鹿児島弁護士会報酬規程に定められた最低基準の手数料、報酬の支払約束をしているが、これは本件事故によつて原告らが被る損害であり、右弁護士費用のうち四〇〇、〇〇〇円は被告らに負担させるのが相当である。そして、原告らは本件における各原告の請求額に応じて、右弁護士費用を負担するので、原告忠雄が四割、原告永子が一割、原告充良が五割を負担することになるから、被告らに負担させるべき四〇〇、〇〇〇円の弁護士費用の各原告の負担額は、原告忠雄が一六〇、〇〇〇円、原告永子が四〇、〇〇〇円、原告充良が二〇〇、〇〇〇円となる。

(八)  よつて、原告らは本件事故に因る損害の賠償として、被告ら各自に対して、原告忠雄は前記(四)の(2)ないし(5)および(七)の同原告の負担額の合計二、六七三、八四〇円から前記(四)の(6)の一部弁済額を控除した残額二、六〇四、一九六円、およびそのうち二、四四四、一九六円((七)の弁護士費用を除くその余の損害)に対する本件訴状の被告らに対する送達の翌日である昭和四五年五月二八日から完済に至るまでの民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払いを、原告永子は前記(五)の(1)、(2)、および(七)の同原告の負担額の合計八六七、七五〇円、およびそのうち八二七、七五〇円に対する右と同じ始期、割合の遅延損害金の支払いを、原告充良は前記(六)、および(七)のうちの同原告の負担額の合計三、三〇六、三七三円、およびそのうち三、一〇六、三七三円に対する右と同じ始期、割合の遅延損害金の支払いをそれぞれ求める。

二  請求原因に対する被告らの答弁

(一)  請求原因(一)の事実のうち、被告会社の営業、被告笛田の職業が原告ら主張のとおりであることは認めるが、その余の事実は知らない。

(二)  請求原因(二)の事実のうち、原告車が原告永子の所有に属していたということは知らないが、その余の事実は認める。

(三)  請求原因(三)の事実のうち、本件事故が発生した本件交差点が、交通整理が行われておらず、かつ見通しのきかない交差点であること、被告笛田が被告車を時速約二五キロメートル位の速度で運転して本件交差点に進入したこと、被告笛田に甲県道からの交通の安全の確認について過失があつたことは認める。

(四)  請求原因(四)の(1)の事実のうち、原告忠雄にその主張のような後遺症が残つていることは否認する。その余の事実は知らない。同(四)の(2)ないし(4)の事実は否認する。同(四)の(5)の相当慰藉料額は争う。同(四)の(6)のうち、被告会社が損害賠償として二四八、七八四円を支払つたことは認める。

(五)  請求原因(五)の(1)、(2)の事実はいずれも知らない。原告車の本件事故に因る破損の修理費は、当時修理業者によつて一三三、二四〇円と見積られた。仮に原告永子がその主張のとおり死産したとしても、右死産と本件事故との間には相当因果関係がない。

(六)  請求原因(六)の事実は知らない。仮に、原告充良の営業上の収益が減少したとしても、右損害と本件事故との間には相当因果関係がない。

(七)  請求原因(七)の事実は知らない。

三  被告らの抗弁

本件交差点はその四隅がいわゆる隅切りされているか、周囲にはすべて建物が並立しているため見通しがきかない状態にあり、原告車が走行していた甲県道の幅員が五・四メートルで被告車が走行していた幅員約四・七メートルの乙県道よりもやや幅員が広いが、明らかに広いといえる程の差異はないし、乙県道の本件交差点の入口には、一時停止、徐行等の道路標識は設置されておらず、乙県道の方が枕崎市方面から鹿児島市方面に通じる道路であるため、甲県道よりも幹線道路であつて交通が頻繁であつた(現在においては甲県道の本件交差点入口に一時停止の道路標識が設置されている)。したがつて、原告忠雄が原告車を運転して本件交差点に侵入するに当つては、乙県道からの交通の安全を確認すべきであつたにかかわらず、これを確認しなかつた点において、本件事故の発生については原告忠雄にも過失があつたものというべきである。そして被告笛田と原告忠雄の各過失の割合は、五対五、ないし六対四とみるのが相当である。したがつて、被告らの損害賠償額を定めるについては、原告忠雄の右の過失が斟酌されるべきである。

第三証拠関係〔略〕

理由

一  次の各事実はいずれも当事者間に争いがない。

(一)  被告会社が石油荷役を業とする会社であり、被告笛田は昭和四二年一二月当時被告会社の従業員で、タンクローリー車の運転手であつた。

(二)  昭和四二年一二月二九日午後一時四〇分頃、鹿児島県川辺郡知覧町西元五、五九三番地先の川辺町方面から頴娃町方面に通じる県道(甲県道)と枕崎市方面から知覧町を経て鹿児島市方面へ通じる県道(乙県道)の交差点(本件交差点)において、被告笛田が被告会社の業務のために運転して乙県道を枕崎市方面から鹿児島市方面に向つて進行していた被告会社の被告車の左前部が、原告が運転して甲県道を川辺町方面から頴娃町方面に向つて進行していた原告車の右前部に衝突した(本件事故が発生した)。

(三)  本件交差点は交通整理が行われておらず、かつ見通しのきかない交差点であり、被告笛田が被告車を運転して本件交差点に進入するにあたつて、甲県道からの交通の安全を確認しなかつた点に、被告笛田に過失があつた。

右の当事者間に争いのない事実によると、被告笛田は不法行為者として、被告会社は被告車の運行供用者、被告笛田の使用者として、本件事故に因つて生じた損害の賠償義務を負うものということができる。

二  被告らは、本件事故発生については原告忠雄にも過失があつたと主張するので、この点について判断する。

右一の(二)の当事者間に争いのない事実と〔証拠略〕を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(一)  甲県道は幅員約五・四メートル、乙県道は幅員約四・七メートルで、ともに歩車道の区別はなく、アスフアルト舗装され、本件交差点附近においては勾配はなく、かつ本件交差点から数十メートルの区間においてはほぼ直線状になつているので、各県道上の見通しはきくけれども、両県道ともその両側に家屋が並立しているために、本件交差点の四隅がいわゆる隅切りされてはいるが他方の県道上に対する見通しはきかない。本件交差点附近においては、甲、乙県道ともに、車両の最高速度は時速二五キロメートルに制限されている。

(二)  本件事故当時の天候は、路面に積る程ではないが雪が降つていて、路面は濡れていた。

(三)  被告笛田は昭和四一年一〇月頃から被告会社のタンクローリー運転の業務に従事し、被告車を専用し、本件事故前にも一箇月に三、四回位の割合で乙県道を運転走行していたので、本件交差点の存在はよく知つていた。本件事故当日、被告笛田は前記のような天候であつたので、ワイパーを作動させながら被告車を運転して乙県道を枕崎市方面から鹿児島市方面に向つて東進し、本件交差点附近の市街地に入つて、速度を同所の制限最高速度である時速二五キロメートルとほぼ同じとした。そして、本件交差点があることは知つていたが、右の速度のままで進行しながら本件交差点附近の交通の状況を見、事故発生の危険はないものと判断したので、そのまま本件交差点を直進通過しようとして進入し、ほぼ本件交差点の中心附近に被告車の運転席が到達した際、被告車の進行方向左側の甲県道から本件交差点に進入して来た原告車を発見すると殆んど同時に、被告車の前部バンバー左側端附近が原告車の右側前部フエンダー部分に衝突し、衝突音を発したので、被告笛田は急ブレーキをかけ、被告車は約七メートル余り稍右斜め前方へ進行して停車した。

(四)  原告忠雄は原告車を運転し、助手席に松山雄策を同乗させ、本件交差点の南西角に在る朝隈歯科医院に赴くため、甲県道を川辺町方面から頴娃町方面に向つて南進し、本件交差点を直進通過しようとして進入したところ、前記のように被告車と衝突し、原告車は衝突の衝撃で進路を北東方(原告車の進路から九〇度以上左方へ)変えられ、約五メートル余進行し、乙県道北側端に設置されているポストにその前部を衝突させて停車した。

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

前掲記の乙第一号証には、原告車は本件交差点に進入するに当つて、一旦停車した旨の記載、乙第二号証には、原告車は本件交差点に進入するに当つて一旦停車し、原告忠雄が左右の安全を確認したが、車が来る様子がなかつたので、徐行しながら本件交差点に進入した旨の松山雄策の供述の記載があり、証人松山雄策の証言のうちには、原告車は本件交差点に進入するに当つて一旦停車し、同証人の本件交差点より東側(原告車の進路の左側)の乙県道上一〇数メートルを見通し、同方向からの交通の安全を確認した旨の証言がある。しかしながら、もし原告車が一旦停車して、原告忠雄が本件交差点より西側(原告車の進路の右側)の乙県道上の交通の状況を確認したとすれば、前記(一)、(三)認定のような本件交差点附近における乙県道の状態、被告車の速度、本件事故発生箇所等からみて原告忠雄は乙県道上を走行して来る被告車を認めることができ、かつ直ちに原告車を発進させ本件交差点に進入することは、被告車と衝突する危険があることを認識できたものと推認されることからすれば、右の各記載、証言をもつて、原告車が本件交差点に進入するに当つて一旦停車したということを認めるに十分であるとはたやすくいい難いし、仮に右の各記載、証言のとおり原告車が一旦停車したとすれば、原告忠雄は一旦停車はしたものの、本件交差点より西側の乙県道上の交通の状況を確認しないままで原告車を発進させ本件交差点に進入したものと推認するのが相当である。してみると、本件事故の発生については、原告忠雄にも原告車を運転して本件交差点に進入するについて、乙県道上の交通の状況を確認しなかつた過失があるものといわなければならない。

そして、前記(一)ないし(四)認定事実と右に述べた点を総合して考えると、本件事故発生についての被告笛田と原告忠雄の各過失の割合は、六対四とするのが相当であると考える。

三  原告忠雄の損害、および同原告に対する慰藉料について、

(一)  〔証拠略〕を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1)  原告忠雄は本件事故によつて、右肺外傷性気胸、右肩甲骨骨折の傷害を受け、知覧町上野病院で応急手当を受けた後、本件事故当日鹿児島市郡元町さめしま病院に入院し、昭和四三年三月一日まで六四日間同病院に入院して、同月二日から同月一三日までの間に五回同病院に通院して、治療を受けた。原告忠雄の右肺外傷性気胸は入院当初重篤状態であつたが、昭和四三年一月八日には治癒し、右肩甲骨骨折は比較的単純な骨折で手術の必要はなく、湿布、電気マツサージ等の治療方法が行われ、同月九日には離床、同月二一日は外出、同年二月四日には外泊がそれぞれ可能となり、同年三月一三日当時において、右肩甲関節自体に障害はないが、右上肢に左上肢に比べて、前方挙上で二〇度、後方挙上で四〇度の運動制限と、右肩に鈍痛を感じるという症状を残す程度に治癒し、昭和四五年五月当時においては、右上肢の前方、および側方挙上運動は正常、後方挙上に若干の制限があり、右手の握力が左手より少し劣り、重い物を持つた場合に右手に痺れ感を生じるという症状を残す程度となつた。

(2)  右の原告忠雄の上野医院、さめしま病院における治療、入院費合計一七八、七八四円は被告会社によつて右医院、病院に支払われた。

(3)  原告忠雄が入院したさめしま病院はいわゆる完全看護が行われているが、当時内縁関係であつた原告永子が、当初の約二〇日間は右病院に泊つて、その後は通つて、原告忠雄の看護に当つた。

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。原告忠雄は治療費として一七九、一四〇円を要したと主張するが、右認定の一七八、七八四円を超える分については、これを認めるに足りる証拠はない。また、原告忠雄は、同原告がさめしま病院入院中の六三日間附添看護を必要とする状態にあつたので、実際には原告永子が附添看護に当つたが、右期間の附添看護婦料として少くとも一日について八〇〇円計五〇、四〇〇円を必要としたものというべきであると主張し、原告忠雄のさめしま病院入院当時の附添看護婦の賃金が一日について少くとも八〇〇円を要したことは、一般の賃金水準に照らして推認し得、右(3)のとおり原告永子が原告忠雄のさめしま病院入院中看護に当つたことは認められるが、右(1)認定の原告忠雄の傷害の治療経過、および〔証拠略〕に照らして考えると、原告忠雄がさめしま病院によつて給付される看護のほかに、附添看護を必要としたのは、右肺外傷性気胸が治癒した昭和四三年一月八日までの一一日間であつたと認めるのが相当である。

(二)  〔証拠略〕を合わせて考えると、次の事実が認められる。

原告忠雄は昭和四二年九月初頃から、九州巧芸社の商号で看板類のデザイン、製作、取付、販売等を営んでいる原告充良に雇われ、主として注文獲得の外交業務に従事するほか、看板の製作(但し書くことを除く)、取付等の業務にも従事し、本件事故に至るまでの同年一〇月から一二月の三箇月間、固定給月額四〇、〇〇〇円、歩合給(外交による受注額の一割相当額)平均月額一四、六〇六円計平均月額五四、六〇六円を得ていたが、本件事故後昭和四三年四月末まで欠勤し、その間は原告充良から何も賃金の支払いを受けなかつた。

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。右認定事実によると、原告忠雄は本件事故による受傷のため昭和四三年四月末まで欠勤したことによつて合計二一八、四二四円の得べかりし収入を失つたということができる。

(三)  原告忠雄は、同原告は昭和四三年五月から再び原告充良の従業員として勤務するようになつたが、後遺症のため重い物を持つことができないので、内勤業務に従事するようになつたため、固定給を月額三〇、〇〇〇円に減額され、かつ歩合給を得られなくなり、これによつて、昭和四三年五月から昭和四五年五月までの二五箇月間に本件事故前の収入との差額少くとも六〇〇、〇〇〇円を失つたほか、昭和四五年六月以降の五箇年間に一箇月について少くとも二〇、〇〇〇円計一、二〇〇、〇〇〇円の収入を失うことになると主張し、原告忠雄に本件事故による傷害の後遺症が残つていることは右(一)の(1)に認定のとおりであり、原告忠雄、同充良(各第一、二回)、〔証拠略〕によると、原告忠雄は昭和四三年五月から原告充良の従業員として再び勤務するようになつたが、約半年間位は外交、看板の取付等を手伝うという程度の勤務状態であり、昭和四五年一一月には原告充良方を退職し、独立して看板の製作業を営むようになつたことが認められ、〔証拠略〕のうちには、原告忠雄が原告充良方に昭和四三年五月に復職してから退職するまでは、固定給月額三〇、〇〇〇円を支給されたのみで、歩合給は支給されなかつた旨の供述があり、原告忠雄、同永子各本人の供述のうちには、原告忠雄が原告充良方を退職したのは、賃金に相応するだけの稼働ができなかつたので心苦しかつたからであり、独立してからの収入は、売上額が概ね月額四〇、〇〇〇円ないし五〇、〇〇〇円程度で、純益はその二分の一程度である旨の各供述がある。

しかしながら、右(二)認定のとおり原告忠雄は本件事故前主として看板製作の注文獲得の外交業務に従事していたものであり、右(一)の(1)認定の程度の原告忠雄の後遺症がその労働能力を何程かは減少させているであらうことは推測するに難くないけれども、原告忠雄の主たる業務であつた看板製作の注文獲得の外交業務に従事するについて特段支障となるものとは考え難いこと、および原告忠雄本人の供述によると、同原告は昭和四三年九月に原告充良に雇われるまでは、フライス工、蔦職、自動車運転手等の職を経て来たもので、看板の製作に従事したことはなかつたことが認められることなどに照らして考えると、原告忠雄の昭和四三年五月以降の収入が前掲記の各原告本人の供述のとおり本件事故前に比して減少しているとしても、右の収入の減少をもつて、本件事故による後遺症に因るものとは認め難く、他に、本件事故による後遺症に因つて原告忠雄が失つた得べかりし収入が何程であるかを認めるに足りる証拠はない。

(四)  右(一)ないし(三)に判示したところによると、原告忠雄は本件事故による受傷に因つて、入院治療費一七八、七八四円、必要附添看護婦料相当額八、八〇〇円、賃金四箇月分二一八、四二四円、合計四〇六、〇〇八円の損害を被つたということができるが、本件事故の発生については、前記二のとおり原告忠雄にも過失があることを考えると、被告らに対しては右損害額の六割である二四三、六〇五円の限度において賠償義務を負担させるのが相当であると考える。

(五)  右(一)ないし(三)に認定した本件事故による原告忠雄の受傷の部位、程度、治療日数、後遺症の程度(自動車損害賠償保障法施行令別表第一二級に該当するものと認められる)、原告忠雄の職業、前記二のとおりの本件事故発生についての原告忠雄の過失の割合、および原告忠雄の後遺症に基づく喪失利益の立証の困難性、その他本件口頭弁論に顕われた諸般の事情を綜合して考えると、原告忠雄に対する慰藉料としては、五〇〇、〇〇〇円をもつて相当と考える。

(六)  原告忠雄が本件事故に因る損害の賠償として被告会社から合計二四八、七八四円の支払いを受けたことは当事者間に争いがなく〔証拠略〕によると、実際には右のうち一七八、七八四円は原告忠雄の治療費、入院費として、被告会社から直接上野医院、さめしま病院に支払われ、その余の七〇、〇〇〇円が被告会社から原告忠雄に支払われたことが認められる)、これは前記(四)の原告忠雄について生じた財産上の損害賠償請求権全額、および右慰藉料請求権の一部の弁済に充当されたものと解するのが相当であり、してみると、原告忠雄の慰藉料請求権の残額は四九四、八二一円となる。

四  原告永子の損害、および同原告に対する慰藉料について、

(一)  〔証拠略〕を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1)  原告車は日産サニー販売株式会社が昭和四二年八月二一日に原告永子を買主とし、新車を月賦販売代金三七五、〇〇〇円で、代金完済までの所有権を右会社に留保して売渡したもので、減価償却資産の耐用年数等に関する省令(昭和四〇年大蔵省令第一五号)によると、その耐用年数は五年、定率法による償却率は一年につき〇・三六九とされているので、本件事故当時までの償却率は約〇・一二三(本件事故当時までの使用期間を四箇月とし、前記一年間の償却率を比例配分する)で、本件事故当時における残価率〇・八七七、残存価額三二八、八七五円であつた。

(2)  本件事故後、原告車は被告会社が鹿児島市へ運搬し、自動車修理業者である有限会社並松自動車に預け、右会社に本件事故による破損部分の修繕費を見積らせたところ、昭和四三年一月二四日当時で、その見積価額は一三三、二四〇円であつた。

(3)  本件事故後間もなく、被告会社の事故処理担当従業員河原田隆と原告永子の父で原告車をその営業のために使用していた原告充良との間で、本件事故による原告車の破損の処理について交渉が行われ、被告会社はその費用負担で原告車を修繕したうえ、これを原告充良へ引渡すことを申入れたのに対して、原告充良が、修繕した原告車の引取りを好まず、若干の金員の支払いを負担しても、破損した原告車は被告会社へ委付しこれに代えて新車を交付することを要求したため、交渉がまとまらなかつた。そして被告会社が前記有限会社並松自動車に原告車の修繕の実施を依頼しないでいるうちに、原告車は有限会社並松自動車から日産サニー販売株式会社に引渡され、同会社の野外車両置場に長期間放置されていたため遅くとも昭和四三年末頃までの間に朽廃してしまい、修理不能の状態となつたので、右会社によつて廃棄されてしまつた。

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定事実によると、原告車の買主である原告永子は、本件事故による原告車の破損によつて、その修理費相当額である一三三、二四〇円の損害を被つたということができるが、本件事故の発生については、原告車を運転していた原告忠雄にも前記二に認定のとおりの過失があつたのであるから、被告らに対しては右損害の六割である七九、九四四円の限度において賠償義務を負担させるのが相当であると考える。

前記認定のとおり被告会社が本件事故によつて破損した原告車を鹿児島市へ運搬し、自動車修理業者である有限会社並松自動車へ預けたことは、被告会社の法律上の義務の履行としてなされたものではないが、被告会社が右のような措置をとつた以上、爾後被告会社は事務管理者として善良な管理者の注意をもつて原告車の管理をなすべき義務を原告車の買主である原告永子に対して負つたものといわなければならない。ところで前記認定のような原告充良の原告車の処理についての要求は、被告会社がこれに応ずべき義務のあるものではないが、被告会社として右の原告充良の要求に応じない以上は速かに原告車を原告永子に引渡し、あるいは被告会社が修理業者に原告車の修理をさせたうえで原告永子に引渡すようになすべきであつたのであり、前記認定のように原告充良との交渉がまとまらなかつたからといつて、原告車を他に預けたまま放置し、原告車を朽廃するに至らせたことは、被告会社の債務不履行であり、被告会社はこれに因つて原告永子が被つた損害を賠償すべき義務を負つたものといわなければならず、前記認定事実によれば、原告永子が被告会社の右債務不履行に因つて被つた損害は、原告車の本件事故直後の破損した状態における価額、すなわち本件事故前の残存価額三二八、八七五円から本件事故による破損の修繕費一三三、二四〇円を差引いた一九五、六三五円であると認められる。

(二)  〔証拠略〕によると、本件事故当時原告忠雄の内縁の妻であつた原告永子が、昭和四三年三月一二日、妊娠八箇月で切迫早産(死産)したことが認められ、原告永子がさめしま病院に入院していた原告忠雄の附添看護に当つたことは、前記三の(一)の(3)に認定のとおりであり、過労が妊産婦、胎児に悪影響を及ぼすことは公知の経験則であるが、右認定の事実から、直ちに原告永子の死産が原告忠雄の附添看護による過労に因るものと認めるに十分であるといえないのみでなく、たとい、原告永子の死産が医学上原告忠雄の看護をしたことによる過労を原因とするものであつたとしても本件事故と原告忠雄の内縁の妻である原告永子の死産(交通事故と当該事故による負傷者の妻の死産)との間には法律上の因果関係(いわゆる相当因果関係)はないものと解するのが相当であるから、原告永子の死産を理由とする被告らに対する慰藉料の請求は、結局失当といわなければならない。

五  原告充良の損害について、

原告充良は、その使用人であつた原告忠雄が本件事故に因る傷害、後遺症によつて、少くとも五年間は本件事故前のように原告充良の営業である看板類の製作の外勤受注業務に従事できなくなつたことによる受注額一箇月平均一四八、二九〇円の減少によつて、中間利息を控除して三、一〇六、三七二円の得べかりし純益を得られなくなつたと主張し、原告忠雄が昭和四二年九月初頃から原告充良に雇われ、主として看板類製作の受注の外交業務に従事し、同年一〇月から一二月までの三箇月間に平均月額一四六、〇六六円の注文を獲得していたこと、原告充良が当時原告忠雄の内縁の妻であつた原告永子の父であることは前記認定のとおりであり、〔証拠略〕によると、昭和四五年七月二二日、原告忠雄は原告永子と婚姻し、妻の氏を称することになつたことが認められるが、〔証拠略〕によると、原告忠雄が原告充良の営業に従事していた間も、営業に関しては原告忠雄は原告充良との雇傭契約によつて、前記認定のとおりの賃金の支払いを受ける単なる被傭者に過ぎない関係にあつたもので、原告充良と共同営業主的立場には全くなかつたことが認められるのであり、このような被傭者の交通事故に因る稼働障害に基づく使用者の収益の減少と当該交通事故との間には、相当因果関係はないものと解するのが相当であるから、たとい本件事故に因る原告忠雄の受傷によつて原告充良の営業上の収益が減少したことがあつたとしても、原告充良の右の営業上の収益の減少を理由とする損害賠償請求は失当であるといわなければならない。

六  原告らの本件訴の提起に関する弁護士費用について、

〔証拠略〕によると、原告らは本件訴の提起に先だつて、被告会社を相手方とし鹿児島簡易裁判所昭和四五年(ノ)第三三号調停事件として、本件事故に因る原告らの損害の賠償として合計八、六三四、〇四七円の支払いを求める調停を申立てたが、被告会社は、前記の本件事故に因る原告忠雄の損害の賠償の一部弁済として被告会社が支払つたことに争いのない二七八、七八四円を含めて、原告忠雄、原告永子の両名に対して合計約七五〇、〇〇〇円ないし七七〇、〇〇〇円程度の限度においてのみ賠償に応ずる旨を主張して譲らなかつたため、右調停事件は不調に終つたことが認められ、前記三ないし五に判示したところによると、原告らの右調停事件における請求額は過大であつたが、被告会社の右提示額も過少であつたといわなければならないから、右調停事件が不調に終り、原告らが本件訴を提起するに至つたこと自体は、その権利主張のため相当な方法であつたということができる。そして、前記三ないし五に判示した原告らの本件請求のうちの理由のある限度、および当裁判所に顕著な弁護士に対する民事訴訟の委任による手数料、報酬の一般的基準に照らして考えると、原告らの本件訴訟の委任により要する弁護士費用としては、原告忠雄については一〇〇、〇〇〇円、原告永子については五〇、〇〇〇円(但し、被告笛田に対する関係においては右のうち一〇、〇〇〇円の限度において)の限度において、本件事故に因る損害としてその賠償を求め得るものとするのが相当であると考える。

結論

以上のとおりであるから、原告らの本件請求は、

(一)  原告忠雄が被告車の運行供用者であつた被告会社、被告車の運転者であつた被告笛田各自に対して(不真正連帯債務者として)前記三の(六)の四九四、八二一円と前記六の一〇〇、〇〇〇円の合計五九四、八二一円、およびこのうち四九四、八二一円に対する本件訴状が被告らに送達された翌日であることが本件記録上明らかな昭和四五年五月二八日から完済に至るまでの民事法定利率である年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において

(二)  原告永子が被告車の運転者であつた被告笛田、被告笛田の使用者であつた被告会社各自に対して(不真正連帯債務者として)前記四の(一)の七九、九四四円と前記六の一〇、〇〇〇円の合計八九、九四四円、およびこのうち七九、九四四円に対する右(一)と同じ始期、割合の遅延損害金、被告会社に対して前記四の(一)の一九五、六三五円と前記六の五〇、〇〇〇円のうち一〇、〇〇〇円を除いた四〇、〇〇〇円との合計二三五、六三五円、およびこのうち一九五、六三五円に対する右(一)と同じ始期、割合による遅延損害金の支払いを求める限度においてそれぞれ理由があるが、原告忠雄、原告永子の各被告に対するその余の請求、原告充良の各被告に対する請求は、いずれも理由がないものといわなければならない。よつて、原告忠雄、原告永子の各請求を右の理由のある限度において認容し、原告忠雄、原告永子のその余の各請求、原告充良の各請求をいずれも棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言、その免脱の宣言について同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 寺井忠)

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